【人物】バラク・オバマ

人物紹介

バラク・オバマ Barack Hussein Obama

バラク・オバマは、第44代アメリカ合衆国大統領であり、初のアフリカ系アメリカ人の最高司令官であった。2008年と2012年の2期に渡り合衆国大統領を務めた。ケニアとカンザス州出身の両親の子であるオバマは、ハワイで生まれ育った。コロンビア大学とハーバード・ロー・スクールを卒業し、ハーバード・ロー・レビューの会長を務めた。イリノイ州の上院議員を務めた後、2004年にイリノイ州代表の米国上院議員に選出された。オバマと妻であるミシェル・オバマとの間には、マリアとサーシャという2人の娘がいる。

Biography.com より一部引用・翻訳

『マイ・ドリーム バラク・オバマ自伝』

著 者:バラク・オバマ, (訳)木内 裕也, 白倉 三紀子

発行年:2007

発行元:ダイヤモンド社

Webcat Plusで内容を確認する

CiNii Books(国立情報学研究所)で大学図書館の本を探す

Amazonで購入を検討する

目次(掲載サイト)

紀伊國屋書店HP

文献内容紹介

本書は、オバマが35歳となる年の1995年に出版された「Dreams for My Father」の改訂版(2004年)の翻訳書となる。オバマが、ハーバード・ロー・スクールを卒業し、弁護士として活動をする時代に執筆されたもので、政治家として活動を開始する前の時点において執筆がなされたものとなる。以下に示すように、本書ではオバマがハワイにて生を受けてから、自らのアイデンティティとの葛藤の中で歩んできた生い立ち、その中で志したコミュニティ・オーガナイザーとしての取り組みが主に描かれる。政治家として、米国において重責を担うこととなるオバマが、それに至る以前にどのような思いや経験をしてきたのかということが回顧されている。

自らのルーツ

1950年代から始まった米国での公民権運動は、1964年の公民権法の制定において重要な節目を迎えた。このような時代背景の中で、1961年にオバマは米国ハワイ州にて生を受ける。しかしながら、その後のオバマが育つ家庭環境は安定的なものとは言い難い状況が続く。オバマは2歳の時点で父親とは離れ主には母方の祖父母、母親との生活を続ける。さらにその後、継父の祖国であるインドネシアで幼少期の数年間を過ごし、再びの両親の離婚後、米国での生活を再開するといった経験をしている。このような幼少期の体験をしながらも、本書において回顧されるオバマの幼少期を特徴づけるのは黒人としての自分と、白人の祖父母、母親をはじめとする周囲の人々との差異や自分自身の存在の置き所への悩みである。ケニア人の実父と米国出身の白人である母親との間に生まれたオバマにとって、身近な人々と自分の肌の色の違いは意識をせざるを得ないものであったことは想像に難くない。しかしながら、その自分自身のルーツである実父との直接の交流は、インドネシアからの帰国後の1か月に限定されることが本書には記されている。自分が何者であるか、日常的に体験する黒人と白人との差異やそこでの葛藤は、その後のオバマにとって継続して考えなければならないテーマとなった。ハワイに帰国したオバマは、その後、ロサンゼルスのオキシデンタル・カレッジに入学をする。しかし、大学においても黒人であることの葛藤の体験は継続し、またそれに考えを巡らす日々が続く。その後、当該大学の交換留学制度を使って、ニューヨークのコロンビア大学へと籍を移すこととなるが、その理由にオバマは、「仮に、自分がアメリカの黒人であると自覚するようになり、周りもそう見ているとしても、それには何らかの拠り所が必要だった。…もっと深い何かを共有できるコミュニティーが。じっくりと腰を落ち着けて、自らのコミットメント試すことのできる場所が…。」(p138-1950年代から始まった米国での公民権運動は、1964年の公民権法の制定において重要な節目を迎えた。このような時代背景の中で、1961年にオバマは米国ハワイ州にて生を受ける。しかしながら、その後のオバマが育つ家庭環境は安定的なものとは言い難い状況が続く。オバマは2歳の時点で父親とは離れ主には母方の祖父母、母親との生活を続ける。さらにその後、継父の祖国であるインドネシアで幼少期の数年間を過ごし、再びの両親の離婚後、米国での生活を再開するといった経験をしている。このような幼少期の体験をしながらも、本書において回顧されるオバマの幼少期を特徴づけるのは黒人としての自分と、白人の祖父母、母親をはじめとする周囲の人々との差異や自分自身の存在の置き所への悩みである。ケニア人の実父と米国出身の白人である母親との間に生まれたオバマにとって、身近な人々と自分の肌の色の違いは意識をせざるを得ないものであったことは想像に難くない。しかしながら、その自分自身のルーツである実父との直接の交流は、インドネシアからの帰国後の1か月に限定されることが本書には記されている。自分が何者であるか、日常的に体験する黒人と白人との差異やそこでの葛藤は、その後のオバマにとって継続して考えなければならないテーマとなった。ハワイに帰国したオバマは、その後、ロサンゼルスのオキシデンタル・カレッジに入学をする。しかし、大学においても黒人であることの葛藤の体験は継続し、またそれに考えを巡らす日々が続く。その後、当該大学の交換留学制度を使って、ニューヨークのコロンビア大学へと籍を移すこととなるが、その理由にオバマは、「仮に、自分がアメリカの黒人であると自覚するようになり、周りもそう見ているとしても、それには何らかの拠り所が必要だった。…もっと深い何かを共有できるコミュニティーが。じっくりと腰を落ち着けて、自らのコミットメント試すことのできる場所が…。」(p138-139)と述べている。自らの拠り所を求めて、オバマはコロンビア大学での勉学を重ね、コミュニティ・オーガナイザーになることを決意することになる。

コミュニティ・オーガナイザー

大学の卒業年となる1983年に、オバマはコミュニティ・オーガナイザーになることを決意した。しかしながら、当初の段階においてオバマ自身がこの職業についての理解をしていた訳ではなかったことが合わせて回顧されている。職業への理解よりもオバマにとって勝っていたものは、当時の米国での政治状況について、汚職政治の存在、迎合的で癒着のある議会に対する変化の必要性であり、「黒人のまとめ役になるんだ。草の根レベルで仕事をして、変化を引き起こすのだ。」(p158)という気持ちであった。また、それまで自分自身のルーツや身の置き所についての思索を続けてきたオバマにとって、オーガナイザーとして「黒人も白人も、褐色の人々も、それぞれ新たな形でアメリカというより大きなコミュニティー」を作りだし、自分がそのコミュニティの一員となれれば、「最終的には私自身の人生も、ありのままに受け入れられるようになるだろう」(p160)といった思いがあったことが記される。それまでのオバマの育った環境、その中で続けて思いを巡らせていた自分自身の存在のあり方、加えて当時の政治状況がオバマをコミュニティ・オーガナイザーの職に向かわせたことが分かる。大学卒業後、オバマはニューヨークでのコンサルタント会社での仕事をしながら、オーガナイザーの職を求め、イリノイ州シカゴにて本格的な仕事を開始することになる。

オーガナイザーとしての活動

 ニューヨークからシカゴへと移り渡り、オーガナイザーとして働くことなったオバマは、地域の治安維持向上をテーマとする活動の他、それまで雇用訓練センターが存在していなかった地域に新たなセンターを立ち上げるための活動、集合住宅のアスベスト資材の使用に対する現状調査・対応を求める活動など多岐に渡る取り組みを行う。しかし、オーガナイザーとしての取り組みを始めた当初、何の経験もないオバマは、住民を対象にインタビューを繰り返すも思うようにいかない日々が継続したことが描写される。それらのオーガナイザーとしての経験をする中でオバマは、既得権益に縛られる人々の行動や、黒人の地位向上を目指すなかで、それが白人のすべてを否定することに繋がってしまうような黒人民族主義が地域に根付いていることを体感として学ぶ。しかし、オーガナイザーとしての経験を積む中で取り組んだ小学生の子どもを持つ母親を同志とするアスベスト問題への活動では、これほどまでにない充実感を経験したことが記される。母親らが、自らの住む集合住宅における建築資材の健康問題の可能性を認識し、問題の実情を住宅管理の事務局に問いただし、その改善を自ら求めていく姿は、その後のオバマの活動を突き動かすものとなり、それが後にも大きな影響を与えていることが振り返られている。オーガナイザーを志し、また実際にその活動に取り組んだオバマは、地域の人々の現状を変化させるための確かな学びを得ていたことが伺える。

自らのルーツを探す旅の継続

オバマは、幼少期に一度会った父親とは、オバマがコロンビア大学に通う21歳の時に死別している。父親とのやり取りが叶わなくなったオバマは、オーガナイザーとしてシカゴにて働くことを続けながら、自らの姉、兄に会うことをしながら、自らのルーツを探す作業を続ける。父親がどういった人間であったのか、姉、兄からの情報から、また姉、兄のその姿から思いを巡らせる作業を続ける。その中で、オバマは初めて父親の生地であるケニアへと向かい、祖母をはじめとする親戚との面会を果たす。本書では、祖母から聞く、父親と祖父とのやり取り、祖父は父親に何を求めたのか、父親がケニアの地からハワイへとなぜ移り渡ったのかが詳細に記される。白人に使用人として仕えた経験をも持つ祖父は、「白人の力の源は知識だ」(p511)として、厳しい経済状況においても父親への教育を重視した。その後、父親はケニアで家族を支えるために手当たり次第に仕事を行うも、さらなる教育の機会と仕事での発展を求めて限られた機会を活かして、ハワイへと留学する…。オバマはこれらの事実を知って、またそれを自分に重ね合わせ、ひどく涙したことが回顧されている。


文責:小山 宰