人物紹介

パウロ・フレイレ(Paulo Freire)の生涯

1921年ブラジル レシフェにて生まれる。

1947年ブラジル北東部において、識字の難しい成人層を対象とする活動を始め、「意識化」(注釈参照)の用語を関連付けながら、次第にその活動の方法を発展させていった。

1964年までレシフェ大学にて歴史学と教育哲学の教授を務めていた。1960年代には大衆の非識字の問題に対応するため、公衆教育運動に参加した。1962年以降、フレイレの方法を用いた試みは、広域に広がりを見せ、運動は連邦政府の後援の下で広く展開した。1963、64年には、ブラジルにおける全州でコーディネーターの養成講座が開かれ、また、200万人の非識字の状態にある人々への対応のため、2000の文化サークルの設立の計画が作成された。

ブラジルにおいてクーデターが行った1964年、新しい政権は、フレイレの教育を破壊的な要素を持つものと捉え、フレイレは投獄された。フレイレはその後、彼の実践方法が用いられていたチリに亡命をし、また国連の政治科学学校が、フレイレの活動についてのセミナーを開催するなどに至った。1969、70年には、ハーバード大学における開発と社会変革研究センターの客員教授となった。

1970年には、ジュネーブの世界教会委員会に向かい、そこで、教育事務局の特別コンサルタントの職位を得ることになった。その職位においてフレイレは、9年以上に渡って教育改革のアドバイス行い、またさまざまな集団と共に、公衆教育活動の指揮を執った。

1979年になると、フレイレはブラジルに帰国が可能となった。フレイレは、サンパウロの労働者党に加わり、6年間にわたって、成人の識字プロジェクトを率いた。1988年の選挙後、労働者党がサンパウロ市政を握ることになった際、フレイレはサンパウロの教育事務官に任命された。

これらの取り組みの経過における主な著作として『被抑圧者の教育学』(1972年)、『教育の政治学』(1985年)がある。

その後、1997年に逝去。

 

※注釈「意識化」とは?

反省と行動を通した、一人ひとりの社会的現実に対する批判的な気づきの発展のプロセスを意味する。 現実を変化させるプロセスという理由から、行動は基本事項となる。フレイレは、私たちは皆、支配的な傾向を持つ社会的な神話を身につけているという前提に立ち、だからこそ学習は、現実の問題や実際的なニーズを明らかにする重要なプロセスであるとしている。

以上、「Freire Institute」ホームページより引用・翻訳

『被抑圧者の教育学――50周年記念版』

著 者:パウロ・フレイレ、(訳)三砂ちづる

発行年:2011

発行元:亜紀書房

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目次(掲載サイト)

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文献内容紹介

なぜ被抑圧者に対して「教育」が必要であるのか?

フレイレは、被抑圧者の立場にある人の状況が、自分を抑圧する者をはっきりと認識できず、そこにある抑圧的な現状を運命のように受け入れてしまう実態を説明する。これらに対し、抑圧をされる側の状況にある人々へにとっての「教育」および「教育学」の必要性が強調されるが、フレイレは、その「教育学」を、「被抑圧者と共に作り上げていくもの」(p25)とする。この点において、「被抑圧者の教育学」を作り上げるのに、そこでの教育が目指すもの、理念の明確化が重要となる。これらに関連しフレイレは、主体としての被抑圧者と、そこでの「自由」の重要性を説き、「抑圧されている者だけが、自らを自由に解放することによって、抑圧する側をもまた自由にすることができるのである。」(p48)と説明する。フレイレは「自由」を、被抑圧者が、解放され抑圧者の側にとって代わり自由を勝ち取るといったことではなく、「想像し、構築し、憧れをもち、未知の地へ踏み出すような自由」(p72)として位置づける。この「自由」に関わる教育をいかに実践するかが、後述の内容に整理される。

「銀行型教育」と「問題解決型教育」

フレイレは、あまねく行われている教育のあり方として、「銀行型教育」の位置づけを説明する。それらは、教える側が「容れ物」のように位置づけられ、教師等の教える側が、知識を一方的に、その「容れ物」に入れていくといった形式として説明される。教える側ないしは、抑圧する側と抑圧される側の関係を形成・維持し、そういった構造のある社会をそのまま映し出すようなものであるとと「銀行型教育」を整理する。これに対して、解放を目指す教育、「世界とのかかわりのうちに問題の解決を模索する」(p99)教育のあり方として、「問題解決型教育」が説明される。「問題解決型教育」では、教育する側とされる側との関係は対等なものとして位置づけられ、「対話」を通じて、世界に対する意識を明確なものとし、それに基づく解放を目指す。主体としての人間または被抑圧者が、「自由」に接近する当初段階として、「問題解決型教育」が重要となる。

「対話」と変革への動き

「問題解決型教育」の展開において、教える側と教えられ側との「対話」がその核を成すものとして位置づけられる。さらにフレイレは、対話を「世界を媒介とする人間同士の出会いであり、世界を”引き受ける”ためのもの」(p120)と説明する。そしてその対話が成立する条件としての人間への愛、互いの謙虚さ、人間同士の深い信頼関係等の重要性を指摘する。これらを基盤として展開される対話および人間同士の出会いが、人間であることの希求や、現状を変革する動きを生み出し、変革への動きへと繋がっていくことを説明する。


パウロ・フレイレとCO

当該論文では、フレイレの思想および識字教育の方法についての具体を紹介。加えて北米のCOに関する実践理論研究等の文献レビューを行い、フレイレの思想および実践モデルがCO実践に与えた影響と、その実践モデルの課題を下記のように整理している。

  • 1960年代にソーシャル・アクションがCOの一つとして類型化された後、地域開発とソーシャル・アクションの複合的な意味を持つフレイレの実践モデルは、北米社会における「自助価値の高まり、多文化主義の普遍化、社会福祉の抑制傾向の中で、マイノリティのコミュニティの貧困・抑圧状況に取り組むCOの方法として」展開されてきた(西尾 2010:30)。
  • 特に、住民との対等な関係を基盤にした教育実践として、住民の「意識化」やオーガナイザーと住民等との関係づくりにおける実践として取り入れられてきた。
  • フレイレの実践モデルの課題として、住民の多様性が広範である場合や、コミュニティ内の抑圧構造が複雑である場合、必ずしも上手く機能しない。「時間をかけた対話による意識化は、直接的な成果が得られにくい」(ibid. :30)。

文責:小山 宰